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第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。


(覚書き|「水木さんの幸福論(日本経済新聞社)」より。水木氏は幸福な人、不幸な人を観察して幸福になるにはどうすればいいか伝える幸福観察学会を設立している。もちろんいかがわしい団体ではなく会員は水木氏本人のみであり増やす予定はないとのこと)【水木しげる。漫画家。ゲゲゲの鬼太郎の著者】

水木しげるの名言・格言|幸福の七ヶ条 (via mercator) (via layer13) (via k32ru) (via atorioum) (via vmconverter) (via magez) (via fishandmush) (via nemoi) (via systempunks) (via karlmcbee) (via dannnao) (via reretlet) (via hirrrra) (via supersupasiiba) (via jinon) (via para-fall) (via jun06) (via usaginobike) (via jouir33) (via yaek) (via ichica215) (via usaginobike) (via tra249) (via glasslipids)

deli-hell-me:

ウクライナの「分裂地域」地図を作成してみた : 服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪(ブログ版)

 中井和夫先生の『ウクライナ・ナショナリズム ―独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年)には、次のようなくだりがある(208-210頁)。

     ウクライナの国境は特殊な性格をもっている。ウクライナの国境線のほとんどが、かつて一つのまとまった地域を構成していた領域を分断することによってできた境界線を結んでできあがっている。すなわちウクライナの国境線によって多くの地域が分断されているのである。これがまず、国民統合という課題を困難なものにしている。ウクライナの西部を見ると、北からガリツィア、カルパティア、ブコヴィナ、ベッサラビアという四地域がある。これらはいずれもかつてはより大きな領域で、一つのまとまった地域を構成していたが、いまはウクライナの国境線によって分断されている地域である。

 ウクライナ東部の境界に関しては、現在焦点となっているところなので、少々長目に引用させていただく。

     ウクライナの東部の国境に目を転じると、そこには二つの分断された地域がある。ドンバスとスロビツカ・ウクライナ(自由ウクライナ)である。ドンバスはロシア帝国、ソ連時代を通じて、石炭と鉄を産する工業地帯として知られてきた。1917年のロシア革命のあとドンバスはその全領域がウクライナに入っていた。1918年のブレスト・リトフスク講和の直後、ロシア・ボリシェヴィキはドンバスをウクライナから分離して独立したドンバス共和国を創設しようとしたことがある。それは、ドンバスをウクライナから分離独立させることによって、ドンバス地域をブレスト講和の履行義務範囲から除外し、ドイツ軍の占領を免れようとしたのである。そのとき、ウクライナ人ボリシェヴィキであるミコラ・スクリプニクは「ドンバスとウクライナ」という論文を書いて、ドンバスの分離に反対した。彼は、ドンバスは歴史的に見てウクライナの一部であり、独立したドンバス共和国を創設することには反対すると述べた。スクリプニクはドンバスこそ最もウクライナ的な地域であり、ウクライナそのものである、とさえ書いた。しかし、ドンバスはスターリン時代初期に二つに分割された。ドンバスの東の部分はウクライナから切り離され、ロシアに編入された。

     スロビツカ・ウクライナは、18世紀のウクライナ・コサックによるヘトマン国家の一部であった。このコサックのヘトマン国家はエカチェリーナ二世によって廃止された。このとき、スロビツカ・ウクライナの北東部分はやはりウクライナから切り離され、ロシアのヴォロネジ県に編入された。スロビツカ・ウクライナは、ヘトマン国家の中心であったばかりでなく、18世紀ウクライナの政治的、文化的センターでもあった。それゆえ、その北東部のウクライナからの分離はウクライナ文化のその後の発展にとって大きな痛手となったのである。

 中井先生が列挙している一連の歴史的な地域に加えて、ベラルーシとのかかわりが深い私としては、ウクライナとベラルーシにまたがって広がるポレシエ地方にも着目したい。ポレシエは、言語的・エスニック的にはウクライナともベラルーシともつかない独特の存在で、「民族の予備軍」と見なすことすら可能であるが、歴史的にこの地域を領域とする国や行政単位が誕生することはなかったので、住民はポレシエ人といった強固な自意識を抱くには至らず、結局ウクライナ人とベラルーシ人に取り込まれて現在に至るといったところである。

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ウクライナの「分裂地域」地図を作成してみた : 服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪(ブログ版)

 中井和夫先生の『ウクライナ・ナショナリズム ―独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年)には、次のようなくだりがある(208-210頁)。

 ウクライナの国境は特殊な性格をもっている。ウクライナの国境線のほとんどが、かつて一つのまとまった地域を構成していた領域を分断することによってできた境界線を結んでできあがっている。すなわちウクライナの国境線によって多くの地域が分断されているのである。これがまず、国民統合という課題を困難なものにしている。ウクライナの西部を見ると、北からガリツィア、カルパティア、ブコヴィナ、ベッサラビアという四地域がある。これらはいずれもかつてはより大きな領域で、一つのまとまった地域を構成していたが、いまはウクライナの国境線によって分断されている地域である。

 ウクライナ東部の境界に関しては、現在焦点となっているところなので、少々長目に引用させていただく。

 ウクライナの東部の国境に目を転じると、そこには二つの分断された地域がある。ドンバスとスロビツカ・ウクライナ(自由ウクライナ)である。ドンバスはロシア帝国、ソ連時代を通じて、石炭と鉄を産する工業地帯として知られてきた。1917年のロシア革命のあとドンバスはその全領域がウクライナに入っていた。1918年のブレスト・リトフスク講和の直後、ロシア・ボリシェヴィキはドンバスをウクライナから分離して独立したドンバス共和国を創設しようとしたことがある。それは、ドンバスをウクライナから分離独立させることによって、ドンバス地域をブレスト講和の履行義務範囲から除外し、ドイツ軍の占領を免れようとしたのである。そのとき、ウクライナ人ボリシェヴィキであるミコラ・スクリプニクは「ドンバスとウクライナ」という論文を書いて、ドンバスの分離に反対した。彼は、ドンバスは歴史的に見てウクライナの一部であり、独立したドンバス共和国を創設することには反対すると述べた。スクリプニクはドンバスこそ最もウクライナ的な地域であり、ウクライナそのものである、とさえ書いた。しかし、ドンバスはスターリン時代初期に二つに分割された。ドンバスの東の部分はウクライナから切り離され、ロシアに編入された。

 スロビツカ・ウクライナは、18世紀のウクライナ・コサックによるヘトマン国家の一部であった。このコサックのヘトマン国家はエカチェリーナ二世によって廃止された。このとき、スロビツカ・ウクライナの北東部分はやはりウクライナから切り離され、ロシアのヴォロネジ県に編入された。スロビツカ・ウクライナは、ヘトマン国家の中心であったばかりでなく、18世紀ウクライナの政治的、文化的センターでもあった。それゆえ、その北東部のウクライナからの分離はウクライナ文化のその後の発展にとって大きな痛手となったのである。

 中井先生が列挙している一連の歴史的な地域に加えて、ベラルーシとのかかわりが深い私としては、ウクライナとベラルーシにまたがって広がるポレシエ地方にも着目したい。ポレシエは、言語的・エスニック的にはウクライナともベラルーシともつかない独特の存在で、「民族の予備軍」と見なすことすら可能であるが、歴史的にこの地域を領域とする国や行政単位が誕生することはなかったので、住民はポレシエ人といった強固な自意識を抱くには至らず、結局ウクライナ人とベラルーシ人に取り込まれて現在に至るといったところである。

(via glasslipids)